おつりの計算とフィンテック

以前欧州に旅行に行ったときに、バスの運転手やお店の人がおつりの計算ができないのに驚いた。彼らは足し算しかできないので、ものの値段にいくら足すともらった金額になるか考える。そしておつりは正確な金額ではなく、自分が損をしない範囲でのだいたいの金額で渡す。

今でもほとんどの日本人は暗算が得意であるが、昔、朝通勤前に寄る雑貨屋のおばさんのおつりの計算の早いことといったら天才的であった。5つくらい買っても商品を見て即座に合計金額を言い、お札を出すとすぐにおつりを出してくれる。何人かが会計を待っていてもみるみるうちに列がはける。きっとこれを読んでいる人も同じような能力がある知り合いをひとりふたり思い浮かべることができるであろう。

銀行員の仕事は正確無比であった。以前は1円でも狂いがあったら残業して合わせるという話もあった。お金を扱う上での正確性は社会での信用である。だから銀行員はエリートの仕事であったし給与も高かった。

ちなみに、私は金融機関に勤務していたが日本の銀行に勤務したことはなかったから札勘ができない。銀行員は窓口業務の経験がなくても新人研修で札勘の訓練を受けたらしい。銀行員だった同僚に飲み会などの席で札勘の実演をお願いすると、皆喜んでやってくれた。「ふふふ、しばらくやってないけど実は得意なんだよね」などと自慢げに。札勘のできない私から見ると特殊能力の持ち主だから、普段は単なる同僚でもいきなりカッコ良くみえたものだ。

しかし、しばらく前から計算機や紙幣やコインのカウンターが登場した。お金を正確に扱うことは機械がやる仕事になったのである。そもそも紙幣やコインもあまり必要でなくなってきつつある。また、決済や融資も伝統的な銀行の専売特許ではなくなっている。

ビジネスを成長させる上でお金が必要な人がすぐにお金を入手できる、いわゆる流動性の自由度と柔軟性が高まってきた。これは社会の成長の上で革新的なフェーズである。

お金を手で数えたり暗算をしたりする優れた能力を磨くことは、そのときの社会での最適化を求めた結果である。社会が変革したらそういった能力もあまり必要とされなくなるのかもしれない。ノスタルジックな見方からすると寂しいものだが、我々は先に進む必要があるのだ。また、そういった能力が全く別のところで活かされる可能性もある。