AI時代における学歴と教養、英語教育について

私は社会人になってから修士号を取った。理由のひとつは学歴がほしかったからである。日本は学歴社会ではないが、欧米諸国は学歴社会である。国際的な企業で働いたりするときに修士号を持っていないと人並みの学歴がないと判断されるのだ。

日本は学歴社会ではない。たいていの仕事をする上で学歴があることは有利に働くかもしれないが必須ではない。学歴がなくても知識と経験があれば立派に社会人としてやっていける。

欧米諸国では、学歴がないとできる仕事が限られるし、社会的な尊敬が得られにくい。本当の意味での学歴社会なのである。

英語を話す日本人には教養のある人もいるが、単に英語が話せるだけの薄っぺらい人もいる。また幼少期に英語を覚えた帰国子女のなかには子供っぽい英語しか話せない人も多いが、ペラペラ話すから、英語ができない日本人からは素晴らしいバイリンガルのように勘違いされる。

私が外国人に「英語だけでは教養のある日本人と話ができないかもしれない。本当に聡明な日本人の多くは英語を話せないからだ。」と言うと怪訝な顔をされる。それはそうだろう。彼らが高等教育を受けるには英語が必須だが、日本ではそうではない。多くの場合、日本語だけで高等教育が完結する。

また、それとは別の問題だが、日本人には本当の意味でのインテリは少ない。日本では学者や高等な職業人であっても、専門分野以外の知識がなく、教養に欠ける人が多いからである。教育のシステムの問題かもしれない。欧米では大学の学部でリベラルアーツに重きを置き、専門分野については大学院での教育をするからである。日本では普通に学校に行っているとリベラルアーツを学ぶ機会がないまま、会社や社会で職業人としての専門性だけ身につけることになる。

日本人の英語を揶揄する人たちがいる。しかし、実際には私は日本人英語で十分だと思う。母国語ほど流暢ではない英語で話をしたとしても、教養がある日本人なら教養のある外国人から丁重な扱いを受けることができるように思う。ある程度話をしていると相手の教養のレベルはわかるものだ。ちなみに英語ではない別な外国語でも同様である。

私はしばらく、日本人の教養と高等教育については別ものだと考えていたが、最近はそうではないかもしれないと思うようになった。現在、教養のある日本人は、教育を受けなかったとしても素養があったり自主的に学ぶことができる人である。しかし、もし教育制度を整えられれば、教養ある日本人をもっと増やすことができるだろう。

日本が外交問題で遅れをとっている話はよく聞くところである。説明が不十分なことや文化の違いが原因のひとつであるかもしれない。しかしそれだけではない。教養がないから軽くあしらわれるのだと思う。

外国人と深い話をするためには英語力が必要だという人が多い。それはものごとの一面でしかない。彼らにとっては英語力がないのは教養がないことと同じである。しかし、実際に必要なのは英語力ではなくて教養なのである。

だから付け焼き刃のように幼少期から英語を学ぶのは、本質的にはほとんど意味がない。英語を学んだりプログラミングを学ぶより先に、国語や算数、論理を学ぶべきである。また、海や山に出かけてしっかりと遊ぶべきである。自然のなかに教養の基礎があるのだから。そして高等教育としてのリベラルアーツの教育に力を入れるべきである。

学歴がないと仕事に参入できない社会では柔軟性に欠けるし生きにくさもある。しかし欧米にも見習うべき点がある。教育によって全体をみる力を養うことは大切である。人工知能の開発やデータ分析に必要なのもそういった分野であろう。